top of page

​Karin.インタビュー

独立後初のインタビュー
​音楽との向き合い方や
「僕だけの戦争」をはじめ、2025年にリリースした「嘘が甘いから-ep」について
取材していただきました。



​取材・文/小川智宏  撮影/Fujimura Hiyori

IMG_3324.jpeg

――インタビュー自体も久しぶり?

久しぶりですね。どんなふうにインタビュー受けてたかもわからない(笑)。

――独立をして1年くらい?

そうですね

 

――何が一番変わりました?

 

今までいろんな人に支えてなんとかやってきたものが、自分次第でどうにでもなるというか。やらなかったらそれまでだし、たくさんやろうと思ったら動けるから、自分が何を思って行動するかっていうのを、すごく考えるようになりました。今まではずっと何かに追われている感じがあって、曲を作ってないと自分が生きている価値を見出せなかったんですけど、今はそうではなくて。「こういう流れでいきたいからこういう曲をもっと作ってみたい」とか考えられるようになって、追われるものっていうのが少し減ったかな。違うものにも追われてますけど(笑)、でも自分は何が苦しかったんだろうとか、何がしたいんだろうとか、目を背けていたものに向き合えるように、徐々になってきたかなあとは思いますね。

――でも、独立した当初は「どうしよう」っていうほうが大きかったでしょ?

本当に。どん底まではいってないですけど、もうひとつの自分の人生終わったと思ってましたよね。事務所に声をかけてもらって、その言葉ひとつで上京してきて。大きい船に乗せてもらってみんなで旅に出たけど、その船から自分だけが降ろされたような気持ち。「これから私は何をもって歌っていけばいいの?」みたいな。孤独の底みたいなところに落ちた気はしていました。

――そこからどうやって始めていったんですか?

まずはそれを、今まで支えてくれてた元andymoriの岡山健二さんに話したんです。曲は作れるけど、これを誰のためにリリースすればいいのか、どこに届けたいのかもわからないって。そしたら健二さんが「1曲でいいからこの日までにレコーディングしよう」って言ってくれたんです。「売れる売れない関係なく、これをやりたいっていう曲はあるの?」って。それが去年の1月にバンドサウンドでレコーディングしてリリースした「僕たちの戦争」だったんですけど。その時にアートディレクターの女の子も一緒にやりたいって言ってくれたんです。ひとりで心細いんだったら仮にでもいいからチームを作ろうって。そこから、じゃあライブ活動もしていくかって思うようになった。そこまで全然してこなかったし、自分が表舞台に立てば「生きてるよ」って伝えられるかなと思って、ライブはしていこうっていう気持ちになって、やっとそこで前を向けた感じがありました。

――うん。

それで、2024年はとにかくライブして、曲出して、みたいな。私はそういうことをやっていなかったんで、そういうのを改めていちからやっていこうっていうので、去年はなんとか踏ん張ってやっていた気がします。

 

――「僕だけの戦争」って決意が滲むような曲だったと思うんだけど、あの曲をやりたいと思ったのはどういう理由だったんですか?

 

事務所を辞める、辞めないっていう話になった時に、自分が今一番やりたいのってなんだろうって考えたんです。それまでは「この曲が誰かに届けばいい」みたいな気持ちでやってたけど、今の自分だったらどうだろうって。ちょうどその時、同世代のみんなが大学4年生とか就活の時期で、社会人になる手前の友達とかの話を聞いてたんですけど、「私、このままでいいのかな」って、自分の存在意義が急に不安になったというか。いつも誰かのために必死で生活してきたけど、自分が何者かわからなくなっちゃって。自分はずっと狭い部屋に一人でいる気になって社会から目を背けていたのもあったので、そこから自分がまだ何も成し遂げられてないっていうのを逆手にとって戦うしかない、みたいな。そこで自分を奮い立たせて、怒りだけに任せて作ったのが「僕だけの戦争」でした。それでインパクトのある歌詞だけを残して、削って削って。ちょうどUKのインディーロックとかにすごくハマってたんで、そういうバンドサウンドのものを作れたらいいなって。

――あの曲を聴いて、なんか急にむき出しになったなっていう感じがしたんですよ。それまでの曲と全然違う感じがあった。

確かにそうですね。今までは結構自分の内側にある曲を作ってきたので、なんかそこから一歩抜け出して、敵じゃないけど、周りの景色を見ながら「自分がいかに生き残るか」みたいな。そういう「戦う」ところに入ってきたので、景色はかなり変わったんじゃないかなって思います。そういう、自分の力だけで戦うっていうのを、今までまったくしてこなかったんですよね。いろんな貴重な体験をさせてもらってたけど、どこかで自分が獲得した仕事とかステージじゃないなってずっと思ってたんです。自分が曲を作っても、誰かが「いい曲だよ」って言ってくれないといい曲だと思えなかった。でも今は、「こういうのをステージで歌いたいな」とか「今これを残したい」みたいなものをちゃんと考えるようになりました。正直、ひとりになって音楽辞めようって何回も思ったけど、どうやっても切り離せなかったということは、やっぱり自分はこういうのをずっと続けてこそ自分という存在なんだなっていうのを再認識できた。自分が今、音楽と共存できてるってことがただただ嬉しいんです。

 

――高校生の時にデビューして、もちろん作品ごとに成長はしていたと思うし、歌えることも広がってたと思うんだけど、そういう手応えもなかったの?

 

何もないですね。アレンジャーのおかげとか、みんなのおかげでできてると思ってたんで。初期の頃とか本当にひどくて、バンドメンバーとかアレンジャーさん、みんなすごい人で、莫大なお金をかけてやってもらってるけど、「そこに私って必要なのかな」とか思ってました。途中で赤い公園の津野米咲さんと出会った時も、圧倒的な天才すぎて、「これ、私が歌わない方がいいのかも」と思って(笑)。

――レコーディングで泣いて逃げ出したっていう話を当時も聞かせてもらいました。

 

それでマネージャーに「赤い公園に楽曲提供っていうのはどうですか」っていう提案をして、めちゃくちゃ怒られて。それぐらい、自分がいる意味がわからなかったんです。ずっと作り続けてたけど、何をやっても満足はしなかったし、曲を作り終えるたびにすべてを出し切っていたから「もう二度と曲作れないかも」って思って。ずっとその隣り合わせでやっていた気がします。

 

――でも、そもそも音楽を始めた時の思いはあったわけじゃないですか。それはどこに行ってしまってたんですか?

 

最初、地元でやってた時は我ながら天才だと思ってたんですよ。スキルはないですけど、曲のよさは自分が地元ではずば抜けて一番だと思ってた。みんながそう言ってくれるのもあるけど、とにかく自分がすごい才能があるんだと思ってたんですよね。でもいざデビューに向けてやっていくと、全然曲も通らないし、どんどん自信がなくなっていって。あとはそれまであまりベテランのアーティストのライブに足を運んだことがなかったんですけど、事務所が「いつか自分がここに立つんだと思って、そういう目で観に行こう」って、いろんなライブを観に行かせてくれて。そういうのを観て「東京ってこんなすごいんだ」みたいなので、そこで一気に自信をなくしました。やっぱり自分はスキルも持っている引き出しも少ないから、全然通用しないなって。そこからコロナ禍になって、決まっていたフェスとかの大きいステージも全部なくなってしまって、何もできなくなって……すごい無力でしたね。「私って何も持ってなかったんだ」みたいな。

――鼻っ柱を折られた感じだ。

 

本当にそうです。なんで上京したんだろうとか思いました。音楽で生きていくと思って来たのに、全然仕事もないし、「私っていったいなんなんだろう」って。

 

――それでも、数年にわたって続けてきて、曲もコンスタントにリリースしてきたじゃないですか。そこの一番のモチベーションは何だった?

 

「売れたい」って気持ちがすごい強くあって。定例会議の時に「どうやったら売れると思う?」みたいなことをみんなで話し合って、「売れるまで曲をリリースし続けるしかないね」っていう話になったんです。「マジか」って思いながら、でもその後書き下ろしをしたりとかするなかで自分だけの音楽じゃなくなって……誰かのために音楽をやってたから、そこまで作れていたのかなと思ってます。その思いが独立してさらに増したっていうか。今回の「嘘が甘いから」は私の楽曲をエンディングに毎回使ってくれる神戸の高校の演劇部があって、そこが私の曲を使ってくれたお芝居で全国大会に行ったんです。それで「引退式の時にサプライズで来てください」って言ってくださったので行くことになったんですけど、そしたら卒業生から「どうしても相談したいことがあるので前日にお茶をしてくれませんか」って頼まれて。「全然いいですよ」って言って相談に乗ったんです。その時まず思ったのは「私が相談に乗る側になったんだ」みたいなことだったんですけど(笑)。今まで最年少でやってきたので、私も上になったなと思って。

 

――はははは!

 

それでその相談というのが……その女の子が私立の中高一貫校に通って習い事を二十何個とかやってきたみたいな子で、両親からすごく愛情を注いでもらって育ってきた子なんです。中学校で演劇部に入ってお芝居に目覚めて、高校卒業したら女優になるために上京したいと思うようになったそうなんです。で、「私の演技を先生も友達もみんな褒めてくれるけど、両親だけは賛成してくれない」って。ご両親は「ここまで勉強もしてきたんだから、せめて大学は行きなさい」って言うから喧嘩になったらしいんです。それで「Karin.さんはどうやって両親を説得したんですか」って聞かれて。

 

――なるほど。私も全然説得はできてないんですけど、でも、そのくらい自分がやりたいことが明確にあるんだったら、私だったらもう行動に出てるはずだなって思ったんです。私はステージに立ちたいと思ったらすぐ地元の楽器屋さんに行って「ライブしたいんですけど、どうやったら出れますか」って聞いて、もう行動に移ってたので。だから、どうしてもやりたいんだったら、たとえば条件を作って「いついつまでにこうじゃなかったらやめる」とか「こういうふうにやっていきたい」とか、どれだけ本気かっていうのを伝えたらいいんじゃないかな、みたいなことを言って。そうしたらその子が「私が普通だったら、親もこんなに悩むことってなかったですよね」って言うんです。その言葉にすごいドキっとして。自分も変わってるねとか昔すごい言われてたから、何かをしてあげたいって思ったんです。私はその子を安心させられるようなことは言えないけど、何かよりどころみたいなものがあったらいいんじゃないかなって思って、帰り道にすぐ曲を作り始めました。

 

――それが「嘘は甘いから」。

 

そう。その時はずっといい曲ができてない気がしていたんですけど、なんか自分の中で「これがずっとやりたかったんだ」っていう感覚があって。理想のバラード曲ができた気がして、そこからまた吹っ切れた気がしました。

 

――今までも友達のことを歌ったりしたことはあったけど、そういう、いっちゃえばまったくの他人を想って曲を書いたことって――。

 

なかったですね。やっぱり自分とリンクしたものがないと、一生歌っていけないとは思うんです。自分は子どもを産んだことはないけど、曲を作ると毎回産んだような気持ちになるんです。「この子を育てていかなきゃいけない」って。だから人のためにやって、いつか自分が愛情が持てなくなったら嫌だし、ずっとそういうのはやってこなかった。自分軸で動いてるものしか作らないようにしてました。けど、その時は自分にできることがもうそのくらいしかないっていう。ただただその子に居場所を作ってあげたかったんだろうなと思います。曲ができて、明確に誰かに聴いてほしいって思ったのも初めてだったかもしれないです。

 

――だけど、今までもKarin.の曲を聴いて「救われました」とか「共感しました」とか、そういう声はいっぱい届いていたと思うんですよ。それとはやっぱり違う?

 

今までは、すごくその責任を背負ってる気持ちが大きかったんです。たとえば「命の使い方」という曲を作った時、私はいつも通り自分が感じたことをそのまま歌にしたんですけど、その反響がすごく大きくて。いい反響もあれば「この曲聴いて死にたくなりました」みたいな声もあって、「自分のせいで誰かを悲しませてしまったんだ」っていう気持ちになったんです。そこから、曲を作ることで誰かを救えるっていうことよりも、誰かを傷つけてしまうかもしれないって思うようになって、すごい壁ができた気がします。ファンの人から「救われました」って言ってもらえるのは「よかったですね」みたいな気持ちではあるけど、言葉って簡単にできちゃうから、無責任なことを言ってしまうんじゃないかなっていう。それが怖いなっていうのは、ずっとあった。

 

――でも今回は違ったんだ。

 

うん。自分ができることはこれしかない、みたいな気持ちで作ったのはこの曲が初めてだったと思います。その子と直接向き合えたというのも大きかったし、あとは自分がその歳でできてなかったこととか、「本当はこういう声をかけて欲しかったな」っていうこととか、過去の自分に対しても、あの時に報われなかったものを思い浮かべながら作っていましたね。

 

――ああ、まさにこの曲はそういう時期を通過した人からの目線で「大丈夫だから」っていうものになっていますよね。

 

確かにそんな視点はKarin.にはなかったかもしれない。人を励ますとかエールを送るとか、自分のことで精一杯なのになんで人のことを励まさなきゃいけないんだろうってずっと思ってたんです。でも自分なりのエールソングって、別に明るいポップなサウンドとかじゃなくてもいいんだなって。それが自分らしいというか。そう割り切れたからこういう曲を作れたんじゃないかなと思います。

 

――つまり、誰かの価値観とか誰かの基準でこういう曲を作ろうっていうんじゃなくて、自分自身の価値判断で作れるようになった。

 

そうですね。この曲を作れて、バラードは1回自分の中で区切りがついたので、次は明るいものも作りたいとか、そういうふうに考えられるようになりました。いったんやりたいことが明確に表せたから、次はこういうのに挑戦してみたい、とか、視野は一気に広がった気がします。

 

――逆に「嘘が甘いから」ができるまでは迷ってもいた?

 

かなり迷ってました。8月に出した「タワマン文学」は本当に自分の心境しか綴ってない曲なんですけど……私って、周りには普段からすごく明るいように見えたりとかするらしいんです。でもそう言われるたびに「私のこと何も知らないくせに」と思ってて。ずっと悩みながらやっていました。でも「タワマン文学」もやりたいことではあって。今までのみんなが作り上げてくれたKarin.から抜け出せてはいないけど、歌詞とかも含めて自分の好きなものではあったので。

 

――「タワマン文学」はとてもいい曲だと思ったんですよ。すごくKarin.らしい曲だなと。

 

もう、私らしさが吹き出してるみたいな。失うものがないっていうか、誰に何を言われてもいいみたいな吹っ切れた気持ちで作った曲だったので、歌っていてすごく明るい気持ちになれるわけではないですけど、特に歌詞は自分の中で凄い凝ったものになったなって思うし、生活してる中でも聴きやすいな、自分のペースでいられる曲だなって思いますね。

 

――個人的な印象だけど、「僕だけの戦争」が出たときに「このモードで行くのは大丈夫かな」と思ったところもあって。このままだと燃え尽きちゃいそうだな、みたいな。だけど「タワマン文学」を聴いて、変な言い方だけど「Karin.、ちゃんと正しく悩んでるな」って思えるところがあって、ちょっと安心した。

 

「僕だけの戦争」って、独立して自分が世界に放り出された気持ちとか、決意表明としてやったものの、自分っていうものが明確に見つからないまま「あれでもない、これでもない」ってやってたプロジェクトではあったので。でも「僕だけの戦争」がなかったら、自分を奮い立たせるものは作れなかったんじゃないかなと思うので。あそこで踏ん張って出してよかったなって。

 

――そう。あの時はそういう気合みたいなのが必要だったと思うし。Karin.はずっと「孤独」っていうものをテーマにしながら曲を作ってきましたけど、それは「嘘が甘いから」にもやっぱりありますよね。でもその孤独に対する捉え方も少し変わってきた?

 

そうですね。孤独に対してすごくマイナスなイメージでずっとやってきたところもあるけど、今、独立して、なんか自己は確立されたなって思ったんですよ。孤独ではあるけど、自分自身はこういう人なんだ、みたいな。ちゃんと自分の足で立ててる気にはなったので、孤独というのは負の感情だけじゃなくて、自分が自分らしくあるための言葉でもあるなって。

 

――本当にその感じがするんですよね。ひとりなのは変わらないっていうか、よりひとりになった感じもするけど、自分が動かないと何も動かないっていう。それはプレッシャーかもしれないけど、自由もある。その変化がすごく表れたなと思います。

 

そうですね。

 

――歌も変わりましたよね。

 

結構変わった気がしますね。振り返ってみないとわからなかったですけど、当初は「こんなキーも出るんだぞ」みたいな感じだったなって。何かを見せつけないと自分が歌う意味を見出せなくて、「転調してもこのメロディを歌えるんだぞ」っていう気持ちでやってた。デビュー当時とか、3オクターブを行き来するみたいな曲ばかりでしたからね(笑)。けど今は自分の音域っていうものがあって、自分が生活している中から出る感じになった。歌っていて辛くなることも多かったですけど、今はそれもそんなにないし。

 

――「辛かった」というのは?

 

みんなが作ったKarin.を自分が背負わなきゃいけないみたいな気持ちで、何かに憑依しながらずっと歌ってたから、レコーディングが終わった後も自分が何者かわからなくなって、2日間ぐらい人と喋れなくなったりとか、ツアーの時も何も悲しくないのに涙が止まらないとか、そういう、自分でもよくわからないことになってたんです。無理してたっていうか、自分のことが嫌いで逃げ出したかった。でも歌うのがやっぱり好きなんだなって再確認できてからは、歌い方も変わった気がします。

 

――なんか、すごい綺麗なお庭を作ったんだけど、絶対誰も入らないように有刺鉄線張り巡らすみたいな感じだったもんね(笑)。

綺麗すぎる川に魚はいない、みたいな(笑)。本当にそれだったと思います。

 

――今はちょっと濁ってるかもしれないけど、でもなんか生き生きとしてますよっていう。そうですね。全部ひとりで解決するんだみたいな気持ちでずっとやってたけど、人に素直に意見を聞けるようになったし。人との接し方っていうのも変わりました。私、他の人に「Karin.っていうアーティストはこういう感じだよね」って言われるのが昔は大嫌いで、そこに私の意思なんて何もないと思ってたんですよ。みんながいいと思ってくれてたものを壊さないようにしてるだけだって。でも今は自分がやりたいと思ったものに他の人が「いいね、俺もやりたい」みたいな感じで混ざってくれるようになったので。

 

――でも、10代とか20歳とかで「みんながいいと言ってくれるなら」っていうところにちゃんと向き合えたのもすごいと思いますけどね。自分のことが一番信用できなかったんじゃないかな。自信がなくて、スキルも知識もノウハウもなかったから、自分で判断するっていう自信が持てなくて。だから「誰かのために」って思ってた。自分の世界観を作り上げて、そこから抜け出せなくなるのが怖かったんです。だから誰かに作ってもらって、そこにお邪魔する形でやってたのかもしれないなって。今は誰の世界にもお邪魔できないので、自分で城を作るかみたいなところからやるしかない。ひとつずつ、天井を作って、窓を作ってみたいな。そうやってひとりで形にするなかで、いつ音楽できなくなるか分からないけど、なんかたぶん私は音楽やめないなっていうふうにも思えるようになりました。昔は「天才は若いうちに死ぬから、私も若いうちに作品残しておきたい」みたいなことを言ってたけど、今はそういうのはない。

 

――生きやすくなった?

 

生きやすくなったと思いますね。

 

――そうだよね。今回のepの3曲を聴いても、生活の中でちゃんと曲が生まれてる感じがするんですよ。

 

確かにそうですね。嬉しいです。

 

――しかも今回は弾き語りじゃないですか。改めて弾き語りでちゃんと作品作ろうと思ったのには何か理由があるんですか?

 

今まで一切やってこなかったので。ずっと自信がなかったんです。私はギターが好きじゃなくて、「ギター弾きたくない」ってずっと言ってたんですよ。

 

――え、そうなの?

 

どうしても弾き語りでやらないといけない時もあったけど、ずっと自分に自信がなくて、「私はバンドでやりたい」って言ってたんです。事務所からは「あなたの弾き語りのデモを聴いてみんながいいって思ったんだよ」って言われても「そうなのかな」ってずっと思ってた。でも独立して弾き語りでやらざるを得なくなって、すごい練習するようになったんです。それまで練習してなかったわけじゃないですけど、暇さえあればスタジオに入ってピアノ弾いたりギター弾いたりするようになって。向き合わないと何ひとつ成し遂げられないことに気づいて弾き語りをやるようになってからは、ステージに立つのも怖くなくなりました。自分にしか作り出せない空気っていうのがあるはずだから、ライブするのが楽しみになって。弾き語りが楽しいっていうよりは自分にやれることはあるから、それが自分のやる気につながるというか。その考え方はすごく変わった気がします。

 

――そもそも弾き語りがKarin.の原風景でもあるし。

 

そう。何曲作っても、思い浮かぶのって自分しかいないんですよ。バンドでライブをやっている時も、曲作りましたっていって「いい曲だね、これってステージ上に何が浮かびますか」って聞かれると、毎回「私しかいないです、他に誰もいないです」って答えてたので。やっぱり私は弾き語りに向いているというか、自分で完結させたいみたいな気持ちが強くあったのかなって。

 

――だからそういう思いはあるけど、一方では自信がないというのもあって。そうなんですよ。だからみんなに頼りすぎてた。でも実際やってみると、よくも悪くも、バンドサウンドも想定できるけど、打ち込みの音が入ってきてもすごい歪んだギターが入ってきても、私の元の骨組みの姿はずっとあるなって思えた。だから自分ひとりでステージに立つことの恐怖心は今はあまりないですね。誰に何を言われても、どんなキャパシティの場所でも、何も変わらないなって思います。

 

――逆に言うと、バンドでまたやってもいいかもしれないしっていう感じ?

 

それも、それでひとつのものを作り上げるっていうのがすごい楽しいし。ずっと孤独だと思ってたから、自分は自分しか救えないと思って心閉ざしてやってたけど、今はオープンに、いろいろな人の力で作り上げたいなって。ずっとひとりで背負っていく必要はなかったんだなって。自分がしたいものっていうのが言葉にできるようになってから、またバンドでやりたいと思えましたし、弾き語りも作り出したいものがあると思えたから。そこはすごいポジティブなものに変わったかな。

 

――なんか話を聞いていて思ったけど、それってじつは普遍的な揺れ動きだったのかもしれないよね。Karin.の場合は10代のうちに音楽で戦っていくことになったから一足早くそれを経験することになったけど、多かれ少なかれ、今同世代のみんなが同じようなことに直面しているのかもしれない。

 

うん。高校生でデビューして、同年代の人たちからは大人みたいな目線で見られてたけど、実際は全然そんなことなくて。誰にも相談できなくなって見栄を張るっていうか、自分で鎧をかぶってないと自分でいられないっていうか。急にプロの世界に入ったから、急に自分に求められるものもすごいたくさんあって、それをこなすのにも精一杯で。でも同年代の友達とかに相談できるような内容でもないじゃないですか。それで自分じゃ抱えきれない量になってたなって。でも今にして思えば、自分が根本的に悩んでることっていうのはたぶん、同年代の人と変わりはなかったんだなって。

 

――それこそ、神戸の高校生の話を聞いて「私と同じだ」って思えるものがたくさんあったようにね。

 

そうです。自分ひとりじゃないんだっていう。みんなそれぞれ悩んでて、違う環境ではあるけど、一貫して「何者かになりたい」と思って、生きる意味がないと死んじゃうと思ってたけど、じつはそうでもなくて。自分だけがすごい孤独だと思ってたけど、みんなそれぞれいろんなところにいろんなものがあって、悩みだったり葛藤だったりがあるんだなっていうのを感じたのがきっかけだったかなって思いますね。

 

――そうそう。自分は特別だと思っていたけど、いい意味でそうじゃないんだって気づいたというか。

 

仕事するのも人よりは早かったので、みんなから「いいないいな」って。同年代の同じ地元の音楽やってる人とかからすれば「急に出世して羨ましい」とか言われて。でも私にとっては大学に通ってるあなたの方が何倍もすごいよって思ってた。「私なんて音楽とったら何もないもん」って。なんかすごいないものねだりですけど、みんなのことがずっと羨ましかった。

 

――そうそう。半分自己卑下いうか被害妄想みたいなものもあったんだろうけど、そういう心持ちだと、きっと誰かに「わかるよ」って言われても「わかってたまるかよ」って思ってしまっていたと思うんですよ。

 

本当に思ってました。「まだ若いんだから何でもなれるよ」とか言われて、じゃあもうお前は夢諦めたのかとか、すごい皮肉ぶってたっていうか。若くたって若くなくたって私は私でしかいられないのに、なんかすごい未来があるようなことを言われるのはすごい嫌でした。

 

――今はそういうことを言われても何も思わない?

 

もう、自分が若いってあまり思わないです。でも、歳を取るってすごいマイナスなことだと思っていたんです。失っていくものばっかりだって。でもそのステージを越えて、今はブラッシュアップしていく時期だなって。磨いていかなきゃいけないっていうのがすごい課題だと思ってます。ひとつのものに対してすごい時間をかけてやるようになって、20代のうちにとか、そういう数字を気にしなくなりました。

 

――なるほどね。「生まれた時のこと」を聴いていると、この温度感で過去や未来のことを歌えるようになったのは、そういう心境の変化ゆえなのかもしれないなと思います。

 

「生まれた時のこと」は「嘘が甘いから」と同時期に作ったんです。私にこんな前向きな歌作れるんだってめちゃくちゃ嬉しくて、これは残しておきたいと思ってレコーディングしました。毎日毎日少しずつ、クッキーの生地みたいに生きる意味みたいなのを引き伸ばして生きてきたけど、いつか今まで頑張ってきて良かったなって思える日が来たらいいなっていう願いだけを込めて作りました。

 

――本当に前向きというか、生きていくっていう方向への意思がある曲になりましたね。

 

「生きてたい」って一貫して思えたのも変わったなって。生きる意味もなければ死ぬ意味もない、私は何のために生きてるんだろうとかずっと思ってたけど、そういうのもいつかその日もあったなって過去を振り返られるように、今は必死に生きてるっていう。その気持ちをそのまま文字にできたかなって思います。うまく歌いたいとか綺麗なものとして届けたいっていうのではなく、自分の言葉がそのまま音楽に乗せられたらいいなっていうささやかな願いだけで作られた曲だと思います。

 

――この曲がいいなと思うのは、そこに他者がちゃんといる感じがするんです。それは特定の誰かというよりも、ひとりで生きている周りにいろんな人がいて、そういう人々のなかで私も生きてるんだなっていうのを普通に認めている感じ。

 

生活が続いているっていうか。人と関わりながら、それでも自分に何かひとつでもきっかけがあればいいなっていう願いというか、そんな誰かのために何かをして「よし、これで自分も生活ができる」とか、「今日は何もできてない、どうしよう」とか、「今日も一日何もできなかったな」とか、そういうなかで世界も自分の生活も周りの生活も続いていく。他者と関わり合うことで自分もちゃんと存在してたんだな、みたいな。「自分がいなくても」とかそういうことを考える時間は減ったけど、それもいつか「こういう悩みがあった」って人にちゃんと伝えられたらいいなって、神戸の高校生を見ながら思ったというか。生きがいとか死にがいとかはなくても、今自分がこういうふうに生活できてて、たぶんそれって自分がいろんなことを残してきたからで。だから否定するものが減ったというか。「生きてきてごめんなさい」って思っていた自分がいなくなったなっていう気持ちがありますね。

 

――もう1曲の「低体温症」については?

 

これは、それこそずっと言ってたように私は今まで自分の内側であるものしか作ってなくて、だから季節とかも何もなかったんですよ。昔誰かに言われたんですけど、「Karin.ちゃんって『今日寒いね』とか『暑いね』とか、そういうことを一切言わないね」って。その時私は「だって、『私が寒い』ってただの主観で、その人は寒くないのに『寒いね』って嘘をつかせたくない」って答えたんです。自分の主観でしかないものを人に簡単には言えない、みたいな。だから作ってる曲もみんながいろんなシーンで「ここが昔の自分と似てる」とかリンクしてもらえるように、あえてそういう設定とか、周りで見えるものとか、食べてるものとか、そういうものが限定されないようにしてきたんです。一人称も、1曲の中「僕」「私」「君」みたいなのを何個も使ってあえて曖昧にしてた。でもそれを明確に表したくなったんです。その時に……小学生の時に百人一首を習っていたんですけど、その中の小野小町の有名な話で「百夜通い」っていうのがあって。それは、小野小町がめちゃくちゃ美人だという噂を深草少将っていう人が聞いて、でも昔は会えないじゃないですか。だから歌を贈って、それを読んで「この人ってこういうこと書けるのね」っていうのが百人一首なんですよ。で、その深草少将もそうしたら、小野小町から返事が来た。それが「私に100日間毎日プロポーズしてきてください、そしたらあなたと会います」っていう内容だったんです。で、深草少将は毎日通うんですけど、最後の夜、向かう途中で大雪で亡くなっちゃって、結局会えないんです。で、小野小町は「なんだ、最後来なかったわ」って何事もなかったかのように生活を続けるっていう。その話がずっと忘れられなくて、その冬の景色で1曲作れたらいいなって。

 

――なるほど。

 

そのなかで「別れ」っていうテーマが浮かんできたんですけど、私にとって別れって悲しいものでしかないと思っていたんですよ。人によっては新たな可能性とか言うけど、もう戻れないのに、どうやって明るい気持ちで次に進めばいいのか、ずっとわからなくて。高校を卒業した時も、高校生だった自分から離れたらもう1曲も作れないんだろうなって何百回も思ったし、20歳になった時も10代がこんな辛かったんだから、20代はもっと辛いんだろうなって絶望しかなくて。でも、事務所を辞める時もレコード会社のずっとお世話になった方に「次会う時は笑顔で会いたいね」って言われて、「次とか言ってくれるんだ」って思ったんです。お互い背中を向いて歩き出すけど、それがまた交わる時が来るんだなって。もちろん自分次第ですけど、自分が頑張ってたらまた出会えるかもしれないって考えた時に、曲を作れそうだなって思った。それで自分にもし次のチャンスがあるとしたら、どういうふうに成長していたいかなみたいなことを想像しながら作りました。

 

――これ、すごくいい曲ですよね。個人的にはepの3曲のなかでも一番印象が強かった。

 

なんか意外と反響が大きくて(笑)。作った当初はそんなに自信がなかったんですけど、ピアノでしか作れない曲だったし、作っていて楽しかったですね。今まで歌始まりの曲がほとんどで、イントロを作っても実際リリースされるときは歌始まりになっていたりもしたんで、自分で物語を作るっていうのがこの曲では実現できた気がします。

 

――ピアノの弾き語りですけど、ピアノとギターだったらどっちが好きですか?

 

今はピアノです。昔家で弾いてたアップライトピアノとかを弾くとすごく懐かしい気持ちになって、すごく楽しいなって思います。

 

――声にもなんかすごい合ってる感じがするね。

 

だからなんで昔からやってこなかったんだろうって(笑)。デビューするまでギターしか弾いてなかったから。最近ピアノの弾き語りのアーティストもめちゃくちゃ出てきているし、その支えもあってっていうか、自分が表現する手段がどんどん広がってるなって思いますね。

 

――新鮮だし、これからに繋がるような曲なのかもなって。でもこれでいったん、やりたいものっていうか、売れる売れない関係なしに、自分が残したいものっていうのは完結できたかなと思っていて。今、もう次のものを絞っていってるんですけど、次は全然違うものをやろうと思っています。レコードを聴くようになって、自分が手に取るものがめちゃくちゃ増えたんですよ。ジャズもすごい聴くようになったし、今までクラシックが大好きで、それが正義だと思っていたけど、20代に入ってから「ビル・エヴァンス最高!」みたいな(笑)。そこからUSインディにどハマりしたりして、レコードもどんどん家に増えていって。そうやって出会ったものをアウトプットできるようになったらいいなって思っているんです。なんか自分がやりたいジャンルっていうのがある意味なくなったっていうか。今まで自分が守ってたものとか責任を感じてたものをいったん壊して、そのなかで自分がやりたいものっていうものを形にできたらいいな、と。それで言うと今回の作品はある意味別れというか、今まで自分が向き合ってきたものを形にできたなって思ったんです。なので、ワンマンライブするっていうのもそこで決めました。1シーズンの終わりだけど、でもそれで終わりじゃなくて、次に進むためのきっかけができたなって。

 

――うん。

 

去年は本当に自分に自信がなくて、やってる音楽も何がいいのかもわからなくて、去年の年末ぐらいまでは音楽やめようやめようってずっと思ってたけど、今は自分がやってるものが好きっていうか。自分のことがどのくらい好きですかって聞かれたら、100%では絶対ないんですよ。でも今まで自分が頑張ってきてたものっていうのが、いつか報われたらいいなと思うし、頑張ってるから今の自分がいるっていうのを認めてあげられるようになったなって思います。だから今度のワンマンライブも楽しみで。自分で企画するのとかすごい嫌いで、責任持てないかもって思っていたけど、この1年自分で全部やってきて、そういう自分を否定する気持ちは減りましたね。まだ孤独かもしれないけど、いろんなものと出会って、いろんな形に変化していくのが楽しい。

bottom of page